―――お前は俺の最後の人形
――――最初で最後の、愛し君。
もう幾度、時は廻り黄金の月をその瞳に映しただろう。
彼女は私に従順な犬の如く寄り添った。
ふと私を見上げる彼女の瞳は相も変わらず漆黒のまま、その表面に月の煌きと私の醜い姿を映している。
「ユキ、」
「はい」
相好を崩して、彼女は私に声を返す。
…嗚呼、なんて、健気なことだろうか。
彼に頼んで彼女を作って貰ったのはもう遥か何十年も昔の事だった。
血縁者が両親に死を以て居なくなり、孤独に、独り寂れた古城で生きなければならなくなった当時まだ14という若さの自分には
その寂しさも虚しさも、耐え切れるものではなかったのだ。
著名な人形師である彼とは、死んだ両親が交友関係を持っていたらしい。
広い古城には、彼の作品らしき天使や妖精、可愛らしい子供の人形がいたるところに飾ってあった。
しかし私はそもそもそんな人形になど興味は無かったし、持つつもりもさらさら無かった、筈だった、のだ。
両親が揃って交通事故で死んだという報せを受けたあの日
呆然とする私の目の前にあったのは、とある少女の人形。
そして私は直ぐに彼へ依頼状を送り、人形作成の依頼をした。
金だけはそれこそ有り余るほど残っていた上に、両親に掛けられていた受取人が私名義の多額の保険金が舞い込んできたこともあり、
私は幾ら払っても良い、という前提を強く彼に伝え、頼み込んだ。
―――彼女を、等身大の動く彼女を、人と見紛う程の彼女を、作って欲しい、
と。
それから約二年後、彼は彼女を私の元へと届けた。
彼は私が遣わせた馬車の客間の自分の隣に彼女を座らせて、この古城へとやってきた。
「此方が、御注文の品になります――」
彼は淡々とした口調で、彼女の手を取ると共に馬車から下りてきた。
「ユキ、御挨拶を。」
「今日から欲音様に御仕えさせて頂きますユキと申します。」
そこには、あの時私が見た人形、そして今も私が大事に書斎の机の上に飾ってある人形が人の姿をとって立ち、話し、そして微笑んでいた。
「欲音様、御注文の品になりますが、今なら返品も受け付けておりますが。」
私はユキの隣で私を見て無表情に話す青年を見据える。
私は、今考えるともう半ば神経がおかしくなっていたのかもしれない。
動き、話し、笑う人形を、心から嬉しく思った、
何の疑いも持たずに。
「返品などする訳がない!幾らでも払いましょう、どうぞ城へお入りください――」
私は自分より随分と背の低いユキを片手に抱え、彼を城へと手招いた。…けれども、彼はそれを制して、笑った。
先ほどまで無表情だった彼からはまるで想像のつかない、綺麗な笑い方だった。
「代金は要りません。ただ、貴方がユキを、”人形”のユキを、”人”として扱い、”人”として見て下さるのなら。」
それが俺の誉れです、と彼は言った。馬車に乗り込む彼は私の腕の中のユキの手を握り、彼女に何かを囁く。
ユキはそれに頷き、ひらひらと手を振った。
それが、私と人形師、歌愛優季との、最初で最後の対面だった。
……彼はその日、自宅で首を吊って死んだと、後から聞いた。
理由は、分からない。
それからの私の生活は一変した。
ユキは私の丁度良い話し相手となり、私が仕事から帰ってくれば笑顔で出迎えてくれた。
彼女は”人形”であることに間違いは無かった、(彼女は物を一切食べず、排泄も入浴もせず、それでも健康であったし、病に掛かる事も無かった)
けれどもそんな彼女を私は愛した。
彼女がどのように作られているのかなど私にはどうでも良いことに違いなく、また彼女以外の人間に愛情を覚えるなど到底なく、考えもつかなかった。
そうして私が彼女と過すようになってから、既に半世紀が経った。
相変わらず彼女は幼い子供のまま、無垢な笑みを私に向けてくる。
…しかし、最近私は思う。
彼女は最初の日からずっと、私を見てはくれない。
それは彼女の漆黒の瞳が何より物語っていた。
彼女の硝子球の瞳には、私の姿は無機質にしか映らない。
そして気付いた、気付いて、しまった。
彼女は、ユキは、誰を愛し、誰に愛されていたのか、その全て、を。
彼女と彼が対の関係にあったことを、気付いてはいたのだ。
思えば、嗚呼ほら彼を乗せて帰るあの馬車の馬に私は興奮剤を飲ませていたはずだったではないか?
それなのにそれは彼を無事に家まで届けてしまった。
そしてこの城に帰る途中で、御者と共に暴走した馬は崖から落ちて死んでしまった。
あの時親密に話をし、眼を合わせ、そして笑い合っていた人形師と人形に私は嫉妬したのに
だから私が手を下した筈の彼は、そんな事するまでも無く自分で死にに行った。
「ユキ、」
彼の気持ちは良く分かった。
自分の愛する”人”を失う気持ちはどんなに深いだろう?
「彼はね、死んだんだよ」
彼女の瞳が、私に腕を捥がれてもナイフを背に突き立てられても揺らがなかったその漆黒が、くらりと紅く染まる。
彼女にもう口は無い、だからもう彼女の心は聞けない。けれど分かる。
「もうずっと、昔の話だ」
「もし君が、彼の居ないこの世界でも、私と生きてくれるのなら」
「――どうかもう一度、立ち上がってみせて、」
彼女はけれど、もう足の無いその体を冷たい床に横たえたまま静かに笑い
分かるよ、これが君の幸せなんだと云うのなら
二度とは、動かなかった。
――――貴方は私の最初の主人
――――最初で最後の、愛を教えてくれた人。
後書き。