「逃げるおつもりですか?」
「!!」
何時の間に、そう思った瞬間腕を掴まれ手錠を掛けられた。
「油断のならない子猫ですね?」
腕を引かれてバランスを崩した体は、奴の胸に倒れこんでいた。
こちらを覗きこむ硝子の奥に瞳が見えない。
ぞっとした、
逃げたい、逃げたい、逃げたい、
ココカラ、ダシテ。
走りすぎた脚は、木板の廊下で擦れて赤く腫れ上がっていた。
幾重にも重ねられた襖はこの家が「隠すため」に造られたのだという事を思い知らせてくれる。
―――自分から此の家にやって来たと云うのに逃げようなどとは、随分とまたおこがましいではないか?
…そんな思いはとうに捨てた。
居れば何時か殺される。それが一週間後か、三日後か、明日か、それとも今日かの違いはあれども
再び一番奥の部屋に押し込められてしまった。
まるで解く事を楽しむ玩具の様である。一部屋を抜け出せば、それから果てしない廊下を通って若しくは次の襖を開けて、永遠とも思える逃亡劇を続けるのだ。
そして奴も、その逃亡劇を楽しんでいるに違いない。
私がいつ抜け出しても良いように何かしら見張りを立て、終りに近い頃に見計らったように私を捕える。
現に私は今まで幾度となく捕えられてきたが、口枷に首枷、腕枷こそされたにも拘らず
逃げられたくなければ一番最初に拘束すべき脚だけは、未だに自由の身だ。疲労と擦傷で、もういくら動くかも分からないが。
奴はそれに飽いた瞬間に私を殺すつもりだろう。それこそ一瞬で、私が例え懺悔しようと泣き喚こうと、お構いなしに。
そうしてまた、新たにこうして女を捕えては、この場に監禁して女の逃亡劇を楽しみ、
飽いて、殺すのだ。その繰り返し。
何故それが分かるのかと言えば、この部屋に一番最初に入った瞬間
あのこびり付いた血の臭いは忘れない。行燈に揺らめく明かりでは、部屋内に紅の其の色は見えなかった、けれど。
…血の臭いは消えないという。
最期に人が遺す其れは、決して消えぬのだと、以前母から聞いた。
もう慣れてしまったこの臭いにさえ、頭はおぞましさを感じる。
がらり
ふと振り向けば、奴が四方向にある内真後ろの襖を開け口元を緩ませて、立っていた。
「そんなに驚かなくても良いではありませんか?」
光の関係か、硝子の奥に瞳が見えない。思えば、一度も見た事が無いような気もする。
「御主人様は、何のおつもりなのでしょうか?」
幾度目か分からない、同じ質問をする。
「貴女はいつもそれだ。私は何度も申しているつもりですが…」
「”私を愛している”、と?」
「それでは理由になりませんか?」
奴…私の仕える主人その人は、私に傅き、黒い手錠で拘束されたこの手を取った。
「そうは思えないのでございます。」
「私は嫌う者を態々此の屋敷に呼ぶなどしません。」
優しく、包むような声。
此の手を取る手も、指も、まるで私をガラス細工にでも思っているかの様に慎重で繊細。
…けれど強ちそれは間違っていないのではないかと思う。
主人にとって私は、恐らくは人形でしか無いのだ。
今は愛ずべき対象であるお気に入りの人形、けれどもいくらでも替えの効く人形。
「けれど貴女に私の気持ちは伝わらない、それが哀しいのです。」
「私は、あの御邸で御主人様の御召物夕餉の御世話、そして掃除をさせて頂ければそれで幸せでございました―――。」
あの邸で仕事に就いていた日々が遥か遠い昔の事のように思える。
毎日大変ではあったが、そう、幸せだった。
田舎から奉公に出た私を拾ってくれたこの主人に、私は感謝してもし足りない。
優しく、使用人だからと言って無理を強いてくる事のない主人。
私はそんな主人に、少なからず好意を抱いていた。身分違いも甚だしい、と嗤いはしたけれど。
幸せ、それに偽りは無かった。
「それなのに、御主人様は何故に私を此処へとこの様に閉じ込めなさるのですか?」
広かった邸に、あの時私しかいなかった使用人は
今、私の代わりにまた一人だけ、女が居るのだろうか
私を殺して、また此処に連れてくる、代わりの女が
「…冷たい水で洗濯や掃除や食事の世話をすれば、手が荒れるでしょう?」
す、と主人が私の手を撫でる。
全く荒い扱いの無いその動きに、私はぞくりとした。
「寒い中で掃除をすれば風邪をひく、暑ければ倒れてしまうかもしれない。」
そのままその手は私の頭を撫でて、
「風邪をひけば、貴女のその美しい声が枯れてしまう。」
頬を伝って、喉に触れ
「そして貴女の朱を引く唇が、私への恐怖以外で、青褪めてしまうのには耐えられない。」
「貴女の心も体も、支配していいのは私だけなのだから」
唇にそっと触れ…
―――嗚呼、確か今唇に引く朱は主人が私の誕生日に買い与えて下さった物、
御主人、様、
「私は貴女を誰より愛しているのです、…殺しなど、するものですか。」
気付いた時には、口を、主人のそれで塞がれていた。
しかしそれなど、私にはもうどうでも良かった気がする。
主人の顔から、丸硝子はいつの間にやら取り去られていて
初めて見た主人の瞳は、この部屋の隅の底知れない闇よりも深い漆黒で
私は、ただそれに魅入るばかりであり
モウ、ニゲラレナイ――――
思考を放棄、した。
…先生、教育に宜しくないんでPTAに訴えても良いですか?