「きゃっ、」
悲鳴を聞いて駆けつけてみればそこには二階の渡り廊下からぐらりと体を傾けて落ちそうになっている彼女がいた。
考える前に体が動く、最早それは守人の習性でもある。
ただ彼女の腰を支えた瞬間に思ったのは思いの外彼女が細く柔らかく、そして良い香りがするということだった。
「お陰様で助かりました…本当に有難うございます、守人様。」
腕の中の彼女が言う。
「私の事まで様付けする必要はございません…いつも言っておりますが。」
「…執事さん、って呼び難いのですよ?それに貴方は命の恩人ですもの。」
「…今回きりですよ?それだけで恩人とは…」
「いつも助けて頂いておりますわ。貴方が居なければ私はとっくの昔に逢魔の腹の中ですから。」
…彼女の細い指がす、と己の腕を撫ぜた。
「私はいつも、守られてばかりです。」
姫籠はこの黒上の結界を守り続ける能力者、今までにそれは幾度となく見てきた。
そしてその彼女を緩んだ結界の内より出づる逢魔の魔の手から守る事が、今の己の役目の一つでもある。
それに何かを思う事など無かった。少なくともそれを負う事など。
「この前の傷は癒えましたか?」
「えぇ。」
彼女の指がまだ少しばかり疼く傷跡を服の上からなぞり、意図せずとも顔が少し歪む。仮面の下だから大丈夫だろうという考えは、しかし甘かったらしい。
「嘘を吐く人は嫌いです」
「何を言われますか」
「私が分からないとでもお思いですか?」
真下から見上げられ、強い視線に中てられる。そういえばまだ彼女を支えていた事に今更気付き、慌てて腕を離そうとして…彼女のもう片方の手がそれを止めた。
「守人様」
「はい」
「私は自分が情けないのです」
彼女はそう言って目を伏せる。傷口をなぞった指はいつの間にか己の服の袖を握りしめていた。
「私がもっと強ければ、私がこんなに弱くなければ、」
その指の力が強くなる。
「貴方は今頃こんな傷を負ってなどいなかったでしょう?能力者ではないその身で逢魔と戦い死ぬ思いをする事も無いでしょう?」
「――違います」
言えば彼女は大きく首を横に振る。
「違う事などあるものですか!貴方は、私のせいで――「違う、と聞こえませんでしたか」
彼女の手に己のそれを添える。はっきりと、それだけは違うと彼女に伝えておきたかった。
「貴方は十分に強い。貴方が居なければ私は今頃、大量の逢魔にこの身を食い千切られている事でしょう。」
彼女の背に手をやる。そっと抱き寄せれば花の匂いが漂った。
「能力者で無いこの身は逢魔と戦う運命の身。…貴女がその身に結界を守る運命を負うように。」
「…私は貴方に死んでほしくないのです」
「…ならば私とて同じです。貴女に死んでほしくない。…だから他の誰でもない、私が守るのですよ。」
この身の名は”守人”。人を守る人…それが愛しい者へでも構わない筈だ。
「危ない事はなさりませぬよう。今日の様にいつでも私がいるとは限りませんから」
「…今日はこれを、差し上げたくて」
彼女の手には一輪の黄薔薇。
「奥様から頂いた物なのですが、先程の強風で飛ばされそうになってしまい…」
それで体勢を崩しあのような、と思うと複雑な気持ちになる。己が気付かなければどうなっていたかは、考えたくない。
「それを…私に?」
「黄色は英国で身を守るための色だそうです。それが転じて米国では大切な人の無事を願う、という意味になったとか。」
「…有難う、御座います。」
「私に出来る事は悔しいですがこの位、神に祈りまじないを信じる事しかできません。…ですが、決して死なないで。」
抱き締めた彼女の体はやはり何より壊れそうに細くて
消えそうなのを感じるのを振り切り、もう一度抱き締めた。
懇願が脳裏によぎる
満身創痍のこの身、けれど諦めは出来ない。
―――目下には必死に結界を修復する彼女の姿
彼女を残しては死ねないと、あの時そう、誓ったのだから。