可愛らしい少女は薄青色の巻髪をふるりと揺らしてにこりと微笑んだ
その笑顔が悲しそうで寂しそうだったなんて
きっと、誰にも言えない。
「ルイお姉さん、」
そう私に呼び掛ける少女は大分と私に心を開いてくれている様だった。
彼がこの街を去ってもう一年少し、経とうとしている。
そしてあの男が此処を訪れてからも既に数カ月が経つ。
あの時私が拒んだその”組織”は何故か私を捨て置く事をしてくれないらしい、
1ヶ月ほど前にこの事務所に初めてやってきた可愛らしいお客は彼女もまた能力者で組織からの御出立。
けれど彼女は開口一番、電話越しでも分かった鈴のような声で一言
「遊びに、来ちゃいました。」
そう言って笑う少女はとても、美しかった。
「ルイお姉さんは未来が視えるんですよね。」
随分と肩の張った敬語は私だからなのだろうか、それとも日本語だからなのだろうか。
ナツキ・ヴェネフスカヤです、と挨拶した彼女は生粋のっロシア人で、およそ日本人のイメージするロシア人そのままの容姿だった。
「んー…未来だけじゃ、ないけどね。別に視たい物が視える訳でもないし。」
適当に、(それでも丁寧にしたつもりだ)淹れたコーヒーをこくりと飲んで彼女は続ける。
コーヒーカップの傍には並べられた砂糖の袋が5つ
それでも首を傾げて眉を顰めて彼女はもう2袋を瓶の中から取り出した。
「でも、視えるんですよね。」
「…?」
彼女の言葉に違和感を感じて、そっと手を伸ばす。
カップを持つ手の、その白い指先に触れる直前に、彼女はそのカップを取り落とした。
ことりと机の上のクロスに守られたカップが鈍い音を立てる。
白いクロスに零れたコーヒーはそんなに量が残っていなかったお陰で少しの染みを生み出しただけだった。
「ナツキ、ちゃん…?」
反射的に軽く上げられた腕が激しい拒絶の意を示したようで、…否実際そうなのだろうけれど、私は伸ばした手を戻した。
「…あ……ごめ、んなさ、…!」
慌てて鞄から白いハンカチを取り出して零れたコーヒーを拭こうとする彼女を止める。
「大丈夫よ、クロスを取ってしまえば良い話だから。」
「でも、」
「それより、…ナツキちゃんは私に未来を視て欲しい、の…?」
「違うんです、良いの、私の未来なんてもう分かってるんです、だから、」
「どうして?私なら大丈夫。言って欲しくないような事は言わない。でもナツキちゃんが視たい物があって、それが視えたなら、幸せな事でしょう?」
彼とあの男からの影響で、私はこんなことまで言えるようになった。
かつて忌んでいた能力でさえ、この目の前の少女の助けになるのならそれで良い。
だから、少女の拒絶を聞かなかった。
「駄目です、ナツキに触っちゃ、駄目!」
包んだ掌は、とても、冷たかった気がする。
柔らかい橙の光に照らされた外の風景は吹雪だった。
開いた扉から外の冷気と容赦のない雪が中へと入りこんでいる。
絨毯は酷く汚れていた。
扉はゆっくりと蝶番の擦り合う音を立てて侵入者を奥へと進ませる。
時に引き攣った様な嗤いが部屋に響いた。
人数は5,6人、その全てが銃を持ち焦点の合わない瞳を空中に彷徨わせている。
床に転がっていた1人の男が最後に扉を潜ろうとした男のズボンの裾を握り、引き留めようとした。
伸ばした腕は、血で紅い。
乱れた呼吸が男の命の危うさを告げる。
掴まれた男は空洞のような黒い眼でしがみつく男を凝視した。
その口が歪に笑みの形に歪められ、ゆっくりと銃を持つ手が上げられる。
銃の焦点は裾を握る男の頭だった。
後ろ向きになった男に、ゆっくりと近づく影がある。
女はもう、失った右腕の事など気にしてはいなかった。
おもむろに立ち上がり、持っていたナイフを男の腹に突き刺す。
銃を持った男は、ゆっくりと後ろを振り向いた。
しがみつかれていない方の足で、尚も喰い下がろうとする男の頭を蹴りつける。
銃の焦点は、自分の腹にナイフを差し込んだ女の頭に変わっていた。
”…ナ…ツキ…”
最期、母親の口は娘に告げる
”いき…なさ…”
扉の陰で見ていた少女の目の前で、その引き金は何発も引かれた。掴まれた男の前に立っていた他の男からも。
引き金を引かれて残った物は、白くたなびく煙と金色の薬莢、そして父親の吹き飛んだ身体、母親の飛び散った脳漿
うつ伏せたまま大量の血液に沈んだ兄はもう、生きてはいまい。
銃声は外の吹雪の音に掻き消されていた。
少女は泣くのも忘れて地下へと走った。
一人に及んだ”事故”は、侵入者達には何の影響も与えていない。
狂ったように笑いながら、ゆっくりと少女を追い詰めていく快感に酔った男達は、急いで逃げる白い子兎をただで殺そうとは考えていなかった。
地下室の鍵を閉め、その暗闇の奥で少女は震えた。
頬についた飛んだ母親の脳味噌の欠片は未だ暖かい。
闇に喰われそうだ。気が狂いそうに、なる。
”……、死ねない、死ねない、私は死ねないの、”
少女は呟き続けた。
石の床を爪で削れば、爪が剥がれていくのが少女には分かった。
かつかつと、侵入者達の幾つもの足音が段々と近づいてくる。
鍵の掛かった扉を幾度も動かし、男達は諦めた様にその扉を銃で撃ちぬいた。
幾つもの引き攣った笑いが少女を取り囲む。
少女はもう何も見てはいなかった。
ただ、”死ねない”とそう、
淀んだ琥珀色の瞳で何もない暗闇を見つめて呟き続けるだけだった。
「ルイお姉さん、ルイお姉さん、」
目の前には白い肌を更に青白くさせて震える少女が、私の手を椅子に握らせて、必死に私の名前を呼んでいた。
「…ナツキ、ちゃん…」
「大丈夫お姉さん、私が分かる!?お姉さん…!!」
「大丈夫よナツキちゃん、…落ち着いて。」
私は誤った未来を視てしまったのか…そんなことはない。
それならば私は彼等を視た時と同様に彼女に対してもまた彼女の「過去」を視たのだろう。
しかし私には、あの凄惨な映像が彼女の過去だなどとは思えない。
「ナツキちゃん…教えて、貴女一体、どんな過去を持っているの――?」
少女はその琥珀色の大きな瞳を更に見開いて、言った。
「…ルイお姉さんは、アレを視て、戻ってきてくれたんですね…」
「…私は、基本的にFORTの能力者が嫌いなんです。」
少女は私と向かい合ってそう言った。
「彼等は”人”、じゃないから。」
そういう彼女はその目を伏せてしか物を言わなかった。
「本当はとても失礼なことだって分かっています。」
「でも、彼等を見るとどうしても思い出してしまう」
「私は殆んど死んでいました」
「私たち家族を襲ったのは重度のサイレント感染者」
「彼等はもうこの世にはいません」
「あの後私を死から救ってくれたのは勿論FORTの能力者です」
「私は感謝すべきなんです。でも、彼等の感情の起伏の無さはどうしても奴等に繋がってしまう。」
「だから私は、彼がとても怖い。」
「人殺しだなんて、彼が一番良く分かっているのに。それでも、私は彼を詰ってしまう」
「…いいえ、それは甘えなんです。彼の感情は私にも触れられるから」
「アツキの感情は私なんかが触れて良いものじゃない」
「でも彼の感情なら、私は触れていられる」
「だって私は、」
そこで少女は言葉を切った。
伏せた瞳が私を向いて、その色に今度は私が息を詰まらせた。
その色は、あの映像の最後で少女がしていた淀んだ琥珀色。
「私には、彼を詰る資格なんてない。」
「だって私は、私こそ、人殺しなんだから。」
少女は静かに言った。
私は思わず少女を抱きしめた。映像というよりは画像の様な、画が流れ込んでくる。
それは管に繋がれた見知らぬ青年の姿
開いた眼は鳶色で、その焦点は曖昧。生命維持装置に生かされた青年は、ぴくりとも動かなかった。
「…私があそこから助け出されて暫く経った後、事件の詳細を知る事を目的にある能力者がFORTの病室の私を訪れました。」
ぽつりと少女は話し出す。
「その人は当時FORTで最も、人の心の中を読み取る力の強い人でした。アツキがまだ、FORTの存在すら知らなかった頃の話です。」
かた、と震えだした少女の体をより強く支える。
「彼は能力者でしたが、穏やかな物腰の人でした。だから私は、何も考えずに彼の手を、言われるがままに取ってしまった。」
「私の記憶と心を読んで過去を視た彼は、2度と此方側へは戻ってきませんでした。引きずり込まれてしまったんです。」
「突然私の手から滑り落ちた彼の手に驚いて、私は彼を呼びました。…けれど彼は、その時には呼吸をすることさえできなくなっていました。」
「私は知らなかった。過去が、人の闇が、能力者の心を引きずり込むなんて。そして、彼を本当に人間でなくしてしまうなんて。」
「でも知らなかったから何だというの?私は彼を殺しました。今彼はFORTの更に奥深くで、2度と覚めない眠りについている。」
「私は、人殺し。…だから、ルイお姉さんも殺してしまうかもしれなかった。」
細い少女の身体には、果たしてどれだけ重い物が圧し掛かっているのだろうか
想像するだけで、こちらが恐ろしくなってしまうほどに、それはあまりに小さく弱い少女には不釣り合いに違いなかった。
「私は生きてる、ナツキちゃん、ねぇ、こっちを見て」
「ルイお姉さん」
知らなかった
少女の微笑みが、こんなに苦しいだなんて
私は、知らなかったの
「ごめんなさい」
「お姉さんに会ってから、彼は今まで以上にアツキを守るようになりました。」
「え…?」
「お姉さんが彼に何を言ったかは私には分からない、けど」
少女は私の腕の中で続ける
「私にもその言葉を下さい。」
絞り出したような声だった。
「今彼は任務中の事故で、目が覚めていません。」
「!」
「だから、私がアツキを守らなきゃいけない。」
「彼が必死に守ろうとした人を、私の大切な人を」
「私は子供だから、分かっていなかった」
「彼が奪うのは、守るため」
「私なんかとは違う。だから、彼の思いは無駄にできない」
「ねぇ、ルイお姉さん」
私に、お姉さんの言葉を頂戴?
そういう少女の声が震えて、今にも消えてしまいそうで
私は遂に、
――――「彼に決して、人を傷付けさせないで。」
そう彼女に言う事は出来なかった。