目の前の男は唐突でなければ私に触られることを酷く拒んだかもしれない。
けれど仮面を被ったこの男の事をもう少し知れれば、と
知れれば、恐らくはその仲間であろう彼の事ももう少し知れるのではないかと
短絡的に考えてしまったのだ。
「いらっしゃい」
扉を開けて入ってきた男は、およそ占いなど信じなさそうな長身痩躯の男だった。
雰囲気が常人の持つ物とは違うのには一瞬で気付いた。
警戒すべきだと頭が警告する。
しかし先日電話で予約してきた筈の人間から怪しいからと言って逃げるのは失礼極まりない。
「…そんなに警戒しなくても構わない。なにもとって喰おうなどとしている訳ではないのだから」
男の低い声は見た目通りで、決して言葉通りに私に安心感を持たせる物ではなかったが、私は相手に敵対心を向けるのを止めた。
「…お客様は私に占いをして欲しい訳ではありませんよね?」
「…占ってもらった所でこれからの未来、明るくなる訳でもあるまい」
ふっ、と笑って男は入口の壁に寄り掛かっていた身体を起こした。
「変な言い方をなさるんですね。…此処へ来る人間は、大抵良い未来を欲しがっている」
「無い物は見えまい?良い未来を欲した所で、無い物ねだりでしかない。それで思うようにいかないからといって占い師を詰るのはお門違いというものだろうに」
「全てのお客様にそう思って頂きたいものです。…そうしたらこの商売は上がったりですけど。」
少し微笑むと、硬い雰囲気の男も少しそれを和らげた。成程、恐らくこちらに危害を加える気が無いというのは本当だろう。
「そこで、お客様は何をご所望で?」
「…この街を離れる気があるかどうか。それを訊きに来た。」
いなくなった彼の面影が、目の前の男に映った気がした。
容姿も口調も雰囲気も全くかけ離れたこの男に何故、と思って気付く。
「西条君は…元気なの?」
「無理ばかりしているが、健康面に問題は無い。…覚えているというのは本当だったようだ。」
「どうせなら彼と会いたかった」
「生憎仕事が詰めていてな。…アイツも来たい、とは言っていた。」
その言葉に多少なりとも救われた。
かつて私達の記憶を消してまで自分の存在を残すまいとした彼―――西条アツキは決して私達を邪魔であるとは思っていないらしい。
「この街を離れて…貴方や西条君のいる組織へ行く、ということ?」
「君が望むのなら。」
そういう男は、おおよそ私の答えが分かっていることだろう。
私は首を横へ振る。
「私には、この街でしなくちゃいけない事がまだあるから。」
「そう言うと思っていた。」
来た時と違い、気配を消していなくなろうとする男を呼びとめる。
私は男に興味が湧いていた。
「待って、」
振り向く男の腕を掴む。
そこから流れ出したのは恐らく、男の過去だった。
漆黒の夜、青年は腕から何やら液体を零していた。
水音が静寂の闇に良く透る。
光もないのに、青年の耳につけたピアスの黄色い石が光る。
突然、何かの叫びが静寂を破る。
絶叫とも咆哮ともつかないその声の方向へ青年は走っていく。
一瞬、光が強くなり、声が途切れた。
青年の影が暗闇の中で動く。
同じ事が更に数度繰り返された。
そして、うっすらと空が白む。
ああ、もしかしてこれは。
かつて、そう自分がまだ小学生だったころに報じられたニュースを思い出す。
何処かの国の何処かの街で起こったテロに近い暴動
街一帯が占拠され、多くの死者がでたあの事件はどのようにして終結したのだったか
次の日の朝に突入した軍隊が見たのは、殆ど屍になった残党数人だけで、その残り大多数が行方不明になったのではなかったか
今でもその多くが国際指名手配されているのではなかったか
若い青年は今や死体に抱かれたかのように紅に染まっていた。
その腕から零れていたのもまた紅
積み上がった死体の状態は個々に違う。
赤く目を腫らして銃を青年に向けて発砲する数人の男は狂気じみていて
しかし青年は直ぐに気配を消して、そして銃を構えた男達が順に倒れていく。
ある者は首から血を噴出させて、ある者は脚を砕かれその場で倒れ込みある者は味方の放った弾丸に頭を撃ち抜かれ。
再び静寂が訪れた時、立っているのは青年だけで
ようやく見えたその顔に、表情は一切なかった。
「それ位にしておけ。それ以上は幾ら精神力があったとしても保証はできん。」
いつの間にか私の手は机に置かれていた。無機質な冷たさに、安堵する。
「貴方は、一体…?」
「君が見たのが俺の何時の過去かは知らん。あるいは未来なのかも。…ただ、先刻君が拒んだこの組織のやる事は、こういうことだろう。」
「上海占拠テロ…」
「…あぁ、あの時か。…もう何年も前だ。…あれを見てよく戻ってこれたものだ。」
「え…?」
「かつてあれが終わった後に俺を検査した能力者が一人異常をきたした。…気をつけておくことだ、他人の過去や未来を視ると、此方に戻ってこられなくなる時がある。」
「…西条君も、貴方みたいに人を平気で殺すの?」
「それは無い。アイツの能力では人を殺すことはおろか人の精神を喰らうことすらできない。…むしろアレを見てよくまだ俺と話す気が起こるというものだが」
「…貴方のすることも、西条君と貴方が所属する組織のすることも否定しない。…だって彼は、私を、私達を助けてくれたから。」
言えば、男はあの無表情だった青年と同じ人間とは思えない程に綺麗に笑った。
「…お願いがあります。」
「なんだろうか?」
とても酷い願いだと分かっている。けれど、
「彼に決して、人を傷つけさせないで。」
あんなに優しい彼だから、そしてこの男もきっと、とても優しい。
だからきっと、この男はこの願いを断れない。この男もまた、彼を大切に思っているだろうから。
「…無論だ。」
「だから、また何時でも此処に来て下さい。確認のために。」
「アイツが来た方が嬉しいだろうに。」
横に首を振る。
「貴方の事を、もう少し知ってみたい。」
男の消えた部屋は異様に広く感じられた。
彼等の居る組織、行ってみても良かったのかもしれない。
けれど此処で彼等の来訪を待つのも楽しいだろう。
それにあの男は自分の過去を私に見せることを多少は許していた気がする。
それはとても、嬉しかった。
そして私は少し
彼への言葉を後悔することになる。
この時はまだ、気付いていなかったのだけれど。