FORTという名の牢獄に閉じ込めたられた人達を、幾度見てきただろうか?

だから私は、サイレントという名の怪物に目が眩んでそればかりを追うあの青年を止めようとするのだ。

彼が信じる物も、彼が正義と思う物も、何一つ真実などありはしない事を彼はまだ知らない。

それは彼が此処に来る前の話

FORTは彼が思うよりもっと

彼が知るよりずっと

非情で、残酷。







鈍い、壁を殴る音が聞こえる。

それは地下数十メートルも離れた先で起こっている筈の事で、思わず幻聴かと、そう思った。

しかし隣で他の研究員が眉を顰めて「何の音かな?」と尋ねてくるに

これは本当なんだと、戦慄した。

叫び声が聞こえないのはそれでも幸いかと思う

罪悪感と恐れを感じるのは、私だけで良い。

まだ何も、否、恐らくこれからもその恐怖を知ることは無いだろう隣の研究員に私は

「拡張工事でもやっているのかしらね?」

と笑って返した。

その笑いが引き攣ってただろうなんて、目の前の研究員には分かる筈も無かった。







地下に進むにつれ、音が酷くなる。

微かに叫び声も…というよりは獣の唸るような声、も。

想い手枷と足枷が擦れる金属音も酷い。

目的地に着けば、男がモニター越しにその様子を見ているのが分かった。

昨日の夜私が此処を出てから、何も変わっていない。

「所長、彼の様子は――…」

「相変わらずだよ。…それでも彼はランスロットに愛されている。」

「精神を侵食するほどに?」

「そうだね。余程お気に召したらしい…彼の罪は彼によって赦される。」

「…4日目、ですか。そろそろでしょう。準備してきます。」

「あぁ、頼んだよ。」

男は寸分もモニターから目を離すこと無く私にそう言って、また黙り込んだ。







男――FORTの所長、レイ・プラティエールその人は恐らくこの状態の彼を聖なる痛みを背負う聖者のあるべき姿とも思っているに違いない。

男はそういう人間だ。

優しさで、残酷さを包んで渡す。いっそ包んでくれるなと言いたい程にまで。

彼がFORTに来てからかれこれ5年が経つ。

ルクス・ペイン…聖なる痛みの名を持つ「ランスロット」に、彼は見染められてしまった。

彼は元は優秀な、優秀すぎる、殺し屋だったという。

彼には殆ど感情が無い。

それは彼が来た時から何も変わらない、ある意味でとても、恐ろしい。

言ってしまえば、「この時」が彼が一番人間らしくなる時だった。

痛みに悶え、呻き、叫び、拒否する姿それは何より

人間そのものだった。







牢の前に立つと、彼はその奥からどうやら私を見ているらしかった。

暗い闇の中で、二つの瞳が紅く、光っている。

黒に近い紅色。元来漆黒な筈の彼の瞳はこの時は紅く染まる。

耳障りな枷の音を引き連れて、彼は此方へやって来た。

「…ノーラ、か…?」

「ようやく終わり?今回は長かったわね。」

「監視する方も大変だろう、」

「人聞きの悪い言い方しないで欲しいわね。」

「所長は出しても構わないと?」

「さぁ、大丈夫とは言わなかったけれど」

牢の鍵を開けようとシステムに手を置こうとして、刹那。

何かが私を止めようとしている、そんな気がした。

「…どうした?」

「いえ、何でもないわ、」

そこまで言って、五重になった強化ガラス越しの彼を見る。

それはふとした疑問

「貴方、劉、よね―――…?」

言った瞬間、奇妙な音がした。

硝子に罅がゆっくりと、彼の手が触れている部分から広がっていく。

「どうして、疑う?」

後悔した。何故そんな事を聞いてしまったのだろう。

疑問が確信へと変貌していく。彼は彼ではない。

漆黒に戻らない紅黒い瞳がその証拠だった。

「狂気に支配されている間が最も、この男が人間らしい時だ。…お前も分かるだろう?だからあの悪魔はこの男を俺に捧げた。この男は贄だ。そしてこの男もそれを分かっている。」

「貴方は、誰、」

「聡明なお前ならその答えはとうに知っている。あの悪魔は俺を誘き出したかった、その為のこの男だ。これからも俺はこの男を狂気に堕とす。それがこの男への罰だ。」

彼は手をガラスから離した。

「もう24時間後に来ると良い。その時には全てをこの男に返している。」

彼は口の端を吊り上げて笑っていた。

見た事のない、それでもどこか美しい笑みに、恐怖した。







「所長、あれは、どういう、」

「ようやく彼が出てきたようだね。5年待ったかいがあった。」

「どういうことなのですか、説明を、」

「ノーラ、」

呼ばれてふと気付けば、目の前には男が、

「聡い君なら、分かるだろうに?」

「、は、?」

その瞳は私を射抜く。

それはそれは至極簡単に

「一つヒントをあげようか。」

男は緩く微笑む。

「私は、悪魔だよ。」







       

―――  増  殖  す  る     形  は  一  人  、

       







あれからかれこれ10年が経とうとしている。

今でも彼は数カ月に一度狂気の淵を彷徨う。そして彼だけではなく、「彼女」もまた。

止める術を私は知らない。彼女に至っては己が狂気を得ていることすら知らない程だ。

純粋な銀髪の青年は所長に見染められた、私と、彼と、彼女と同じように。

青年はいつ気付くだろう、私達がそれでも所長というあの悪魔の駒にすぎない事を。




…しかし聡明だと言われた私はそれでも

その青年にまだ真実を伝えられずに、いる。







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後書き
裏の方で劉がかつて狂ってた時期があったみたいなこと書いたので補足チックに。
ノーラは所長に愛されてるからなんでもかんでも引っ張りだこされて真実を知ってしまうんじゃないかなあと。
最後の方の「彼女」は勿論ナツキなんだけれども
こう、長さ的にナツキのエピソードまで入らなかったというアレd((
アツキは皆に愛されて育てばいいよ…!