滴り落ちる水の音
大理石の床には大きく広がっていく染み
見えない、聞こえない、声が出ない
…ただ
乾いた発砲音が、その静けさを破ったことだけは、記憶している。
突然、苦しくなることがある。
原因も、理由もわからずに、苦しくなる。
何がどう苦しいのか、怖いのか辛いのか悲しいのかも分からず
それでもなんとなく
それが絶望に近いことだけは感覚的に気付いていた。
絶望、覚えうる限りでただ一度の経験
目の前で惨殺された家族
あんなに優しく美しかった母も、あんなに強く逞しかった父も、あんなに聡明で尊敬していた兄も
全て全て、赤い海の中に沈んでいった瞬間
幼少時の記憶はけれどおぼろげでしか無かったが、あの時の記憶だけは嫌に鮮明で、克明で
雪の白と、血液の赤と、ランプの炎のオレンジと
混ざり合ったその世界だけは、もう二度と立ちたくなかった。それなのに。
……最悪の気分だ、と思う。なんて夢だろう、とも。
冷たい部屋で一人、視覚も聴覚も話す術も奪われた中、一つだけ聞こえる乾いた音。
痛くもなく、何も感じないのにも拘らず、気が付けば足元には黒い染みが出来上がっている。
そして感じる、例の途方もない苦しみ、絶望感。
最後の一瞬だけ、白と紅とオレンジと、…何故かそれに漆黒も合わさり、目の前で揺らめいて。
そうして耐えきれなくなり、目を覚ます。
トラウマ、なのかもしれない。けれど、あの時の光景を繰り返すようで違った世界を自分で勝手に作り上げた上の夢は、腹立たしくもあった。
「…また、嫌な夢でも見たの?」
「ノーラ!え、どうして…?」
「鏡くらい見なさいよ。酷い顔。クマまではいかないけれど、貴女は肌が白いから、寝不足は直ぐに判るの。」
差し出される手鏡に映った、自分の顔は確かにノーラの言う通りに血色が悪い。
「また、あの夢を見たの。」
「…絶望感をもたらす悪夢のこと?」
本当はそんなに単純ではないのだけれど。私は心の中でそう思った。
「まぁ、大体原因は分かっているから。良いの、きっとこれは無くならないから、私が自分でどうにかすればいいし、こんな夢に負けなければいいだけの話。」
そう言い切れるようになったのは、自分が大人になったからなのか。
しかしそれを言うと、ノーラは少し悲しそうな顔をして笑って言う。
「ナツキ、貴女は強いのね。」
ノーラはその後何かを呟いて、「仕事があるから、来てね」と一言告げて通信室へと戻っていった。
何を呟いたのかまでは、聞き取れない。けれど恐らくノーラは気付いたのだろう。私の夢の原因が、私の過去のあの事件だということに。
深入りしないところが、彼女らしい。そう思った。
「アツキ、そっちの様子はどう?」
《あぁ、一応ターゲットは確認している。後はタイミングを見計らって、接触を試みる。≫
「オッケー、ターゲットの情報は明朝までには調べておけると思うから、しっかり寝ていて」
アツキはふと笑って、そして画面越しに私を見つめた。
黄金の瞳が、静かに輝く。
「…アツキ…?」
《ナツキ、人の心配をしている場合じゃないんじゃないか?≫
「あーっ…やっぱりわかっちゃうの?ちょっとあんまり寝てないかなーっ」
《嫌な夢でも見た?》
「凄い、アツキそこまでわかっちゃうんだ。私、ちゃんとバリアはってるし画面越しだからシグマは使えないはずなのにね。」
《無理はしないで》
「嬉しい、アツキから心配されちゃった。そんな言葉掛けられたら、ナツキちゃん余計に頑張っちゃうよ?」
《まぁ、冗談言える元気があるならよかったかな。…それじゃあ、よろしく。》
「了解ですーっ!」
回線が切れる前のアツキの顔は、どこか浮かなかった。
けれど、きっと疲れているんだろうと思う。オリジナルのサイレントの探索は危険が伴う。気が抜けない。
そうやって能力者が戦っているのにも拘らず、自分がのほほんと通信室に居ることしかできないのを思うと悔しい。
それに、今回のサイレントはすでに何人かFORTからも死人が出ている。
高い能力者が居ることにはいるが、ファルコには今アツキほどの能力者がいない。
そもそも心を喰らう人間は嫌いだが、こんな時に頼りになるのはやはりスイーパーで、それもまた悔しい。
たとえ心無いものや、心の狂ったスイーパーでも、今の状況をアツキに代われるような人がいればよかったのに
けれどそれで片付くことも期待できない今、自分にできるのは精一杯のサポートと祈ることだけ。
胸元のトリスタンが一瞬、煌いた気がした。
「…所長、…が、…た……むを…」
所長室の前を通り過ぎる時、少し開いたドアの隙間から零れてくる明かりと会話。
ノーラの声は途切れ途切れで、その声は沈んでいた。
「心に影響はありそうかな?」
「…え、……かし……感……子の、……が保つ…かどう…」
「…思い出せない思い出は、いっそ消してしまう方が良かったと、君は思うかい?」
「彼……記…は、……うやら…以前…件……混同……うです、なら――」
「深い傷は、いつ甦るとも限らない。が、深すぎる傷は時にそれを抹消させる。…もしかすれば、彼は最後にあの子の心のその部分を喰らったのかもしれない。」
何故か所長の声ははっきりとしていて、私は扉の前でただ立ち尽くしていることしかできなかった。
「…んな事……可能……のです…」
「彼なら、…あんなに優秀なスイーパーなら、できたとしてもおかしくはない。且つ、それが愛した人だというならば、その命を守るためだというのならば尚更。」
「そんなにも、**はあの子を大事に思っていた、と?あの冷酷なスイーパーが?」
「それでなかったら、*は身を挺してあの子を守らなかっただろう。…彼なら、本当ならば他に道はいくらでもあったはずだった。あの子が死ぬのを覚悟すれば、紙一重であの感染者の心を喰らうことをしたかもしれない。
銃を力ずくで奪ったかもしれない。あの子を撃って油断したところで、感染者を殺すことだってできた。…はずだった、のだよ。」
「それを認めろ、とおっしゃるのですか?ならあの子には何をしてあげたらいいのですか!結局、彼のシグマは不完全だったということでしょう!何故あんなに今でもあの子が苦しまなければならないのですか?!」
「それは違う、と私は思っている。あの日彼はあの子をその身で庇った瞬間に、持てる最高のシグマを使ったはずだった。初めて、「救う」ためのシグマを。」
「なら、」
「これは彼の所為ではない。…あの子が、自分でそれを拒否したんだ。」
「!?」
「とっさの防衛本能か、それともあの子の心はそれを分かっていたのか…それは定かではない。けれど、少しだけ――あんなにも強い彼のシグマを、ほんの少しだけあの子が上回ったとしたら。彼のことを忘れたくない、とあの子が頭の片隅でそう思ったのだとしたら、
今の状況を解けることにならないだろうか?」
「つまり……は、…ではない…と?」
「いや、少なからずその影響もあるのかもしれない。が、あの子の―――」
最後まで話を聞かずに、私は崩れ落ちそうになる足を走らせて、どこへ行くあてもなく、本当にただ、ただ走り続けた。
あれは、何?
自問自答、それに答えられない自分に苛立ち――…本当に、真実を私は答えられない?
頭の中で、霞が掛ったように聞き取れなかったのは、恐らく所長とノーラが話していた内容に出てきた”彼”の名前。
どうして私の頭はそれを聞くことを拒否した?
2人のいう彼は、それは優秀なスイーパー、つまりファルコ所属の能力者だったらしい。
…らしい?
本当に私はその人物を知らないのか
彼が庇ったという”あの子”とは一体誰なのか。逃げ出したことを後悔する。
…そう、私は逃げ出した。所長の話を聞くことを拒んだ。
何故?
怖かった、から。
真実を知るのが怖かった…ならば私はあの話の結末を本当は知っている。
わからない、わかりたくない、わからない
”彼”に庇われた”あの子”、”彼”は”あの子”を庇って死んだ。”彼”は”あの子”を愛していた。…なら、”あの子”は”彼”をどう思っていた――?
”彼”が能力者なら、”あの子”も能力者
…ルクス・ペインが一つ足りない。以前ノーラが言っていたことを思い出す。
「ルクス・ペインは11個ではないの?」
そう聞いた私に、ノーラははっとした顔で、笑って言った
「そうね、そうだったわ」
…どういうこと?本当はルクス・ペインは12個あった?…足りないルクス・ペインは何?
強いルクス・ペインを上回った”あの子”のルクス・ペインは、一体何?
「トリスタン」
呼応するかのように胸元のトリスタンは青白く光る。
ビューイングをした時のようなどこかの光景のイメージが、頭の中に流れ込んでくる
白くて、赤くて、橙色の、中に溶け込んだ、黒。
夢の光景、冷たい部屋はまるで牢獄のような、あぁ、それは確かに牢獄で、そう、私はそこに囚われていて
見えない、そうだ、抱え込まれて、何も見えはしなかった
聞こえない…誰かが私の耳をふさいだ?長い指、大きな手で
話せない、話せなかった、怖かったから。トリスタンは、あのとき何も見せてくれなかった、どうして
”あの子”の記憶は、私の記憶だった。消された記憶、、今はもう亡き”彼”によって。
一発の発砲音、そして続く何発もの銃声。覆われた目も耳も一瞬にしてこの身に戻り
そう、そうだ、白いのは雪じゃなくて動かなくなった人の肌の色
紅いのは血液と、充血した感染者の目の色
オレンジ色だけは、煌々と燃え盛る部屋を照らすランプの色に違わなくて
そして、漆黒の色は、記憶にあるはずの無かった黒は、
「…ナツキ、」
そっと肩に重さが加わる。頬を伝うのは、ただの液体だと見なして良いのだろうか。
「所長、」
「苦しかっただろう?」
「なんで、教えてくれなかったの?誰も、誰も……」
「皆、君の事が大切だった。大事だった。愛していた。…君がその記憶を失ったままなら、そのままで構わないと思っていた。わざわざ、君の傷を抉り出す真似はしたくなかったのだよ。…彼が、何を望んだかを知れば尚更」
所長の手にした漆黒の箱。まるで、彼の髪と瞳のように深いその色
中にはそう、所有者を失ったまま美しく輝くピアスが一つ
「ランス、ロット…」
狂った感染者に拉致され、監禁されたのは今や遠い5年も前のこと。
その私を助けようとし、そして激昂した感染者に殺されそうになった私を庇って彼が死んだのも5年も前のこと。
その場所も、今はもうFORTによって取り壊され、無い。
結局、私がそれ以上の何かを詳しく思い出すことは出来なかった。私が彼の存在を思い出したことを知って、周りは様々なことを教えてはくれたけれど。
やっぱり、彼のシグマは強い。それでも、彼の存在が全て消えてしまわなくて良かったと思う。そこはトリスタンに、私の心に感謝したい。
ランスロットは次の適合者が現れるまで、私の机の中で眠っている。時折取り出して見ては、トリスタンが勝ち誇ったように煌く。自分の力が少し上回ったことにに対してだろう。根深いなぁ、なんて思ったりして。
ルクス・ペインにも感情があるのかもしれない、それならばやはりランスロットは大人なのだろう、トリスタンの煌きにも深い輝きで一瞬反応するだけだ。
それは5年前の私と彼のやり取りのようで、微笑ましくもあるし、悲しくもある。それをアツキに言うと、ガウェインはきっと笑うだろうね、と言っていた。
その時のアツキの顔は私と同じように少し悲しそうで、忘れていた私と違って周りの皆はこの悲しみを5年間持ち続けていたのだと思うと、それも苦しくなった。
 
 
 
 
「ねぇ、劉毅?」
すきだったよ、呟いてみると、それは思いの外恥ずかしかった。
「アツキのことだって、大好きなんだけど。」
アツキになら、大好きも愛してるも何だって言えるのに
「あれはもしかしたら、恋、だったのかもしれないね」
なんてマセガキだったのかな、19になった自分は5年前の自分に少し辛口になった。
本当に好きの意味も知らないのに、誰かを嫌いだとか好きだとか言ってみたりして
でもそれも、子供の特権だったでしょう?ねぇ、そうでしょう、嫌な大人の見本だった貴方なら、笑ってくれる?
「貴方は、私のことどう思っていたの?」
聞くだけ無駄だと、わかってはいるけれど。あの嫌味で冷静な大人は、その質問にさえ表情一つ変えずにこう言うはずなのだ。
”馬鹿なことを言っている暇があったら、仕事をしろ。使えない餓鬼が。”
”彼”は”あの子”を愛していたとあの二人は言うけれど
本当にそうだった?
「子供の真剣な告白に、答えてくれないのは大人じゃないよ?」
――――ランスロットは、静かにそれでもいつもより大きく長く、箱の中で輝いた。