雨に濡れた髪を掻き上げる。

目線の先に見える街の入り口を示す門には見覚えがあった。

雨は止まない、全てがあの時と何も変わりはしない。

ただその街は酷く穏やかだった――視る能力をそれほど持っていない己でも分かるほどに。

少女は此処に居る筈だ。今度は己の番、なのだろう。

…燕がつい、と横を低く通っていった。







”心配をしていない、と言えば嘘になるのだろう?”

金髪を靡かせて、FORTの所長たる男は劉に悠然と言い放った。

”君以外に適任が見つからなくてね”

よくもまあぬけぬけと、と劉は心の中で悪態をつく。任務が与えられていた筈の己を任務から外し、居なくなった(といわれている)少女を捜索しに行けなど

無論彼にしかできない芸当だ。そしてなんだかんだ言っても彼女に甘い彼らしい。

”居る場所は分かっているんだ、以前の君と違って。”

行ってくれるね?と微笑まれた己には無論、断る術など無かった。







美しい街並みだと気付いたのは今回が初めてだった。

前回はサイレントに壊滅的に汚染されたそれこそおぞましい気配の充満する街で、吐き気すらしたのを覚えている。

苦戦した、それは最早過去の事。

幾度となく、それこそあの時よりも生死の境に立ったことなど数え切れないほどにあったけれども

この街の記憶は鮮明だ

そうあの時も雨が降っていた

教会の側、回復の為に火照った身体に、雨の冷たさは心地よかった。

通信はしていなかった。その必要性を感じていなかった訳ではない。ただ、瀕死の状態で連絡を取れば少女に力を使わせるであろうことも明白で

ただ、それだけはしたくなかった。殆ど惰性にも近かったかもしれない。

FORT内で最年少の少女は、己の苦労を顧みない人間であった。それが当り前なのだと思っている節もある。

それは彼女の人間性で、その考え方を否定するような権利は俺にはない。

傍若無人としているようでその実とても繊細で人一倍人の顔色や自分の立場を窺うのに必死な少女のことだ

そして彼女は誰かが死ぬのを殊の外嫌がる。…それが例え、彼女の忌み嫌う「感情の無い」――スイーパー、であったとしても。

だからこそ連絡を入れなかった。瀕死の己の、自分の体力を補完するので手一杯なほどすり減った能力の状態では、その足掛かりさえ恐らく殆ど残ってはいないだろうとも分かっていた。

普通の、それこそルクスペインに愛された彼女以外の人間では、何を視ようとしても何を掴もうとしても、その眼に映るのは、その仮想の手に触れるのはただ空だけだったに違いない。

それで良いと思った。

死ぬならば、いっそそれでも良いと。

…だからあの日、少女が目の前にその姿を現した時、俺は幻覚でも見たかとそう思ったのだ。













気付いた時、呼ばれている感じがした。

一瞬家族が私を呼んでいるのかと思った。だったらその手を取ってしまった方が楽だ。それならどんなに。

しかし私を呼ぶ声は暖かく優しい私の家族の誰のものでもなかった。

その声は怒っている様だった。けれど私は私に向かってそんな風に怒る人を知らない。

私は差し出された手を払おうとした。知らない人にはついていけない。知らない人についていってはいけない、お母さんが私に教えてくれた数少ない事の一つだ。

けれどその手は私の意志などまったく無視して私の手を掻っ攫う様に握って、腕を引いた。いたい、言おうとして、目が覚めた。







「劉…毅…?」

ナツキの目の前にあったのは、此方を見据える劉の漆黒の瞳だった。

「帰るぞ。」

何故、も大丈夫か、も劉は問わなかった。ただその一言、何時もと変わらない声色で。

「何で、貴方が、此処に、」

「任務を遂行しているだけだ」

あの日と全く逆の事を問うていることはお互いに分かっていた。

「私は、」

「帰るぞ」

ベッドの上のナツキを瞬時に、それでも優しく抱き上げて劉は言う。

――この男は、こんな風に怒りを露にする人間だったろうか?

否、少なくともナツキに向かって、それも言い様の無い何処へ向けることもできない、そんな消化できない怒りを露にすることを劉はした事が無かった。

それも本人は気付いていない。

ただナツキだけが、普段の劉と異なる彼に少しの恐怖と、そして少しの安堵を抱いている。

「…離して、私は帰れない、」

「帰るんだ、お前は。」

「だって、」

何処へ―――…?

ナツキのか細い声に、劉は目を見開く。

この少女はこんなにも小さかっただろうか?こんなに弱弱しい瞳と、声を持っていただろうか?

「私の帰る場所はずっと前に消えてしまったの」

「帰るんだ、ナツキ、」

「それは、帰らないで済むおまじない、?」

ナツキの眼は一向に劉の瞳と合わない。それはナツキが意識的にしているようでも、無意識にそうなってしまっているかのようにも、劉には思えた。

「FORTに行くって事は、私が家へ帰らなくても良いよって言われて遊びに行っている様な物なの。そこでは皆、私を大切にしてくれる。」

少女を見つけたその時を、劉は思い出す。

「でも、いつかは帰らなくちゃいけないでしょ?私の家はFORTじゃない。でも私の家はもうとっくにないの。帰らなくちゃいけないのに帰れない。」

時計台の側の白い教会

まるで雪のように白い、そこの影に倒れていた薄青の

「私は誰も私を探せないと思ってた。…探せて無かったでしょ?多分、所長が本気を出さないと見つからないくらいには、力を使ったもの。」

それは彼女が求めたからだろうか?

かつて彼女が人として平穏に暮らしていたかつての影を

あの雪国で家族と幸せに暮らしていたその時を

「私に居場所は無いでしょう?だから私はFORTには行けない」







ナツキの能力が低下している、と検査技師が言った時、そしてそれが数値として見えた時

この少女はどれだけの不安と、恐怖を感じたのだろうか。

劉は腕の中で震える少女を抱く力を強めた。

彼女は聡い。だから、必要のない思いまでもを巡らす。

それは劉が、彼女がFORTにやってきた時から彼女を知っている彼がよく分かっていた。

かつて彼が「辞めてしまえ」と彼女に言った時でさえ、(それは本気の言葉ではあったのだが)彼女は平気に見えて、それでいて彼女自らが彼女の能力に対する全ての検査を望んだという。

検査、どれをとっても彼女の身体には過酷すぎるそれらを。

「独り善がりな安直な答えだなナツキ」

「でも否定できないでしょう?それは貴方だって分かっている筈」

それでもナツキは此処へ来るまでにトリスタンを外す事は無かった。

「否定?幾らでも出来る。」

「嘘、能力の乏しい能力者なんかFORTには要らない。必要とされない。それは私も、そして貴方もよく知っている。」

ナツキは劉の腕の中でもがいた。

「お前が必要な理由を言えば、お前は帰ってくるのか」

帰る、執拗に劉はその言葉を言い続ける。ナツキは黙ったまま、更に目を伏せた。

「お前は能力の為だけに自分があそこに居たと?思い違いをするな、それならお前が寝ていた時、別の案件にかかりっきりになっていた時、お前は常に手の届かない所でまで必要とされていたとでも?自惚れるな、お前の能力が無限じゃない事など誰もが知っている。」

捲し立てる様に、そして募った苛立ちを吐き出すかの様に、劉はナツキを詰った。

「自惚れるんじゃない、自分が完璧で当たり前とは今時餓鬼でも言わん!何の為にビューアーを何人も置いている?お前が一人で全て出来るのなら最初からビューイングなどお前にしか任せんだろう!」

「それ、は、」

「お前に消えて良いなどと誰が言った?誰がお前に消えろと言った?居るならば俺はその人間を消しに行く。生憎、人間でなくてもその位の感情はあるんでね。」

言葉と裏腹に、劉のナツキを抱え込む力は増していく。それは怒りと共に、懇願にも似ていた。

「消えることは俺が許さない。俺が消えることを許さなかったお前が消えることを、赦してたまるか。」

ナツキの頭に、かつてのとある雨の日がフラッシュバックする。

「でも、」

「お前の家はこの街か?この街の何処にお前の帰るべき家がある?…代わりを探す位なら、無くなったと嘆く位なら、それで自分を放り出す位なら」

そこで劉は息を切る。ゆっくりとナツキをベッドに下ろし、顎を持ち上げて無理矢理に目を見つめた。

目線をそれでも逸らそうとするナツキの頬に手を当て、覗き込む。

「お前の生きる意味も生きる場所も此処にある。…帰ってきてくれ、ナツキ・ヴェネフスカヤ。」







ぼんやりとした頭でナツキは、自分の頬に伝う水滴と

そして他人の吐息の、熱い事を知った。







       

―――T  h  e    R   a  i  n  i  n  g    T  o  w  n

       







…これで、良かったのだろうか?

静かに胸を上下させて寝息を立てる少女を見、劉はふとその顔に掛かった髪の一房を手に取る。

艶やかで、しかしふわりとしたその手触りに、触れてはいけないものに触れたような気が彼にはしていた。

彼は、あの突き刺すような彼の言葉が全て彼の勝手である事を知っている。

事実に見せかけ、中に孕ませたのはただの己の欲。

それでもそれに頷いたのは、その言葉を彼女も求めていたからだと驕っても良いのだろうか?

「愛して、いる」







口に出して言えばそれはあまりに熱が籠り過ぎていて、

伝わることのないそれは静かに

手にした一房の髪より、落ちていった。







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後書き
雨の街パート2みたいな。でした。
今度はナツキちゃんが行方不明ですさあどうする劉!とかって一人で劉が焦る所妄想してたのに
結局劉は最後までそれなりに大人でしたつまんない!
ナツキが出て行くなんてよっぽどのこと。それはFORTに自分の居場所がなくなったと感じた時…じゃないかなぁと思います。
劉的にはFORTを辞めるのには大賛成だけど自分の傍を離れるのは許さない、とか思ってると良いな、とか。