あぁ、自分は狂ったんだと直感的に感じた。
驚くくらい静かな部屋の中心で、男は動じるでもなくただ座っている。
その瞳がまるで自分を憐れんでいるようで
自然と、笑みが零れた。
男は、相も変わらずその表情になにも浮かべはしなかった。
近付いて、座り込む男を見下ろす。
瞳だけで自分を見上げる男の漆黒の瞳にぞくりとした。
…その瞳に自分などが映っていても良いのかと問われれば、答えはNOだ。
おかしくなったと自負する自分などが関わって良い相手ではないし、それほどに彼が強いのだと幼い頃から見てきた。
それだけでおぞましくなって、眉間に皺を寄せる。
男が何を考えているのか、自分には分からない。
それでも、と。思わずにはいられなかった。
何がそうさせたのか、今となってはもう分からない。
此処がどこかも正確には分からない。
ただFORTの更に地下の部屋だろう、という事しか。
何故男とここに居るのか
何故
それでも、この様に思考を続ける感情的な”私”の他に、ちゃんとした冷静な”私”も存在している。
「ナツキ」
初めて男が声を出して、想像していたより低いその声に驚いた。
…あぁ、自分はこの男を知っていたのに、声すら頭から締め出していたのだと気付く。
「なあに?」
自分の声も、思った以上に甘ったるい気持ちの悪い媚びた猫のような声だった。
「お前はこれでいいのか?」
これでいいって一体どういう事?
知らず知らずの内に唇を噛んでいた。
「悪い、って言ったらナツキは良い子?」
あぁ、これは冷静な自分の言葉。でも、もうほとんど泣きそうな声だと思う。
「お前にだって覚悟はあっただろう」
覚悟ってなんだろうか?一体何に対しての?
「現実から逃げられはしない。」
「もう現実なんて無い、そうでしょう?」
そう、もう現実なんか無いのだ。それだけは饒舌でイカれた自分にも分かる。
何が現実なのかは、忘れてしまったけれど。
男は私の胸で光るトリスタンを掴んで、言う。
「お前が、こうしてるんだろう?」
毒々しい声で憎々しく吐き出されるその言葉は、痛い。大きな棘、あるいは鋭いナイフのような。
男の肩を押し返して離れようとするが、それは叶わない。
「や、め…」
「ナツキ」
「お前は、これでいいのか」
記憶を占める、銀髪
耳に録音された最後の言葉
「もう、現実は、ないじゃない…」
「――そうか。」
男が静かに、私の髪を撫でる。
「現実が無いなら」
そして体を引き寄せられる。
「今から作り直してやる。」
それは憐れみなのか、同情なのか
「愛せ、とは言わない。」
嗚呼、でも
「愛されろ。」
久しぶりに触れた人の体は、
私が以前”人じゃない”と詰った彼の体温は
あまりに暖かすぎて、
「もう一度全部、貴方が教えてくれるなら」
そうか、もう上は存在しない
全ては破壊された。もうなにも、残ってはいない。
有るとすれば自分が今まで愛してきた人々の残骸だけ
「ナツキ」
薄闇の部屋と男の存在が今の私の全て
「なあに?」
そして首筋に落とされた柔らかいキスから
――――――温かさを求める体が、がしゃり、と重たい鎖の音を立てて
また、全ては始まるのだ。