「あ、」
寒そうに肩をすぼめて歩くその男の蒼いマフラーには、見覚えがあった。
「…あぁ、」
「今日は」と笑うその顔に、何とも言えなくなった。
「仕事中、だったんですね。」
「別にリストラされた訳じゃないですから。」
にこやかにそう言って紅茶…美味しそうに湯気を立てるアールグレイを、彼は少し口に含んだ。
「紅茶、冷めますよ?」
彼に誘われて入った喫茶店はとてもシンプルな造りで、天井で音も無く回る大きな飾りの羽がゆっくりと店内の暖房の効いた空気を掻き回していた。
手元では、これもまた美味しそうな香りを立てながら、アップルペコの入ったカップが白い湯気をふわりと燻らせている。
「帝都銀行、か。」
「えぇ。…無論、ただの銀行員ですよ、私は。」
「帝都銀行に勤めている方がそこら辺の一般市民と比べて”ただの”だなんて可笑しいわね。」
エリート中のエリート、そう言うと彼は肩を竦めて、
「エリートなんて肩書は何にも役には立ちません。…でしょう?」
「…そう。」
同意を求められてふつ、と呟くように返す。結局彼も私も”彼女”に負けている。
「早いですね、あれから3カ月程経ちますか?」
エデン、あの楽園から私達は再びこの世へ堕とされた。結局1億円を手にした私は、あれから順風満帆な会社経営をしている。
「貴方はなんにも得してないじゃない」
「…何にも、とはおかしな事を仰る。」
かちゃ。彼の手からソーサーに置かれたカップは既に空になっていた。
「頂いたじゃありませんか…私も、貴方も、彼女から。」
人を信じる事も、悪くない。
彼は確かにそう言った、そして私もそれには同意する。…疑うことを止めたわけではないが。
「あの子の理想論だけじゃ、この世界やっていけないわ」
「それが私達が選びとった生き方でしょう?」
わたしたち。
あの子の世界は、今でも疑う事、そのものが欠落した蛇の居ない楽園なのだろうか?
そして私達の居るこの世界は、失楽園―――神に見放されてしまった哀れな子羊たちの住む世界、なのだろうか?
「それを後悔はしてませんけどね、私は。」
ふわり、自然に彼はもう一度笑う。
…そういえば、彼の笑顔はエデンで最初に出会った時の頼りなげな笑いと、どこか変わった気がする。
「作り笑い、止めたのね。」
―――そろそろ行きますね、仕事が残ってますから。そう言って立ち上がる彼に、そう言ってみた。
「…さぁ、どうでしょう。」
蒼いマフラーが整った顔立ちに良く似合うな、と思った。
「良ければまたお茶、しません?」
彼に向って書き終えたカードを投げる。
「…此処に書いてある日付が出鱈目で無い証拠があるのなら。」
「人を信じてみる事も悪くないんじゃない?」
「…じゃあ次の機会には冷めてない紅茶をご馳走しましょう」
彼はそう言うと、伝票をすらりと抜きとってもう一度笑った。
「…次、か。」
”緊張、してるんですね”
”…え?”
”いえ、私もですよ。ファイナルとなれば尚更――…ただ、笑顔は、忘れない方が良い。”
「笑顔、ね。」
ポーチから取り出した鏡に向かって口角を指で上げてみる。
…1週間後のこの時間、それまでに完璧になっておくのも悪くない。
彼が作り笑いを止めたとなれば。尚。
―――冷えたアップルペコはそれでも、仄かに甘く、香っていた。