以前地獄を、見たことがある。
その地獄から助けてくれたのは彼だったが
その地獄を作ったのもまた、彼だった。
…そう言えば暫く、それを見ていない気がする。
…あぁ、あれはあばらの折れた音だ、などと頭の隅でぼんやりと思った。
私に痛みは無い、という事は私の骨が折れたのではどうやらなさそうだ。
息を吸えば鉄の臭いに息が詰まる。
錆が酷いと言って鉄棒を拭いた布を鼻に被せたかのようだった。
静かに、霞む視界が捉えるのは血だらけの惨劇と叫び声と男の咆哮。
拳を一方的に振るう男の口元に浮かぶのは笑みだったが
それが意識的な物なのか無意識の物なのか、私には分からなかった。
叫び声が、止まない。
あれは助けを求める声か許しを乞う贖罪の声か。
人間の骨はこうも簡単に折れるのだなと思った。
ナイフが男に向けられる。
そのまま突進していったナイフの男は、顔面に男の拳を食らって倒れこんだ所を鳩尾に蹴りを入れ込まれ吐いた。
ナイフは机に突き刺さる。
唯一無事だった男は顔を蒼くさせ、縺れた脚で逃げ出そうとした。…が、襟首を男に掴まれて
振り返った所にまた拳がある。
痛みに叫ぶ男の鼻の骨はきっと複雑に粉砕されていて、戻るか分からないだろう。
教室はまさに、地獄絵図だった。
呻き声が部屋を満たす。
その中でほぼ無傷な男は
夕日に照らされて赤く染まり
まるで地獄の悪魔に見えた。
「おい、大丈夫かお前」
気付けば地面が揺れていた、…否、自分は背負われているのだと気付くのに暫くかかった。
「…大丈、夫…?」
「新入生があんな場所に居んのは関心しねぇな」
「!」
そうだ、と急にはっきりした頭で先程までの事を思い出す。
入学式、とも呼べないくらいの短時間の式を終えた私は広い校舎内で迷い、
2年の特に危ない不良集団の居る場所へ来てしまっていた。
破れた新品の制服が、何があったかを物語っている。
自分とてそんなに弱いつもりはない。
5,6人の不良など相手にもならなかった筈だった、なのに。
「あの、」
「あ?」
「助けて下さってありがとうございました。」
「―――別に俺は礼を言われるようなことはしてねぇよ」
「そんなことはありません、先輩が助けて下さらなかったら今頃私は、」
「良いんだよ。俺はただ楽しんでただけっつうか、俺が入った教室にたまたまお前が押し込められてたってだけで――…」
その男は急に立ち止まった。
暫く動かない男に、もしかしたら降りろという事かも知れないと思い立つ。
見ず知らずの他人に、負ぶわれ続けるのも気恥ずかしい。
「あの、先輩、私もう歩けますから降ろして下さ―――」
「お前、名前は?」
いきなり首だけ後ろに向けられて目が合う。
唐突な質問と、綺麗な瞳に吃驚して息が詰まった。
「名前。」
「く、邦枝…葵、です…」
「葵か、そうか。」
男は一人で何か納得したように私の名前を呟くと、そのまま私が何を言っても何も返さなかった。
「葵、あおい、」
「…?」
ぼんやりとした意識を振り払って、声のする方を見ると、男の顔があった。
「お前無理はすんなよ」
「無理…?」
「疲れてんだろ、」
俺にしがみついて寝るくれぇだしな、という男の言葉にはっとすれば、私はどうやら男の袖をしっかりと握って眠りこけていたらしい。
「あぁあぁあの、す、すみません先輩!」
呂律の回らない口で言えば、男は拳を振るったその手を私の頭に乗せて撫でる。
「何の夢、見てた?」
「…最初の日、です。」
「あぁ、あれか。」
に、と笑う男の笑顔は、あの時の狂気じみた笑顔では無くて
 
 
 
 
「久しぶりに背負ってやろうか、ほら」
「何言ってるんですか先輩、いいですよそんなの!」
「良いからほら」
しゃがんで大きな背を目の前に出される。
そっと両手を肩に置けばその背はあの日と同じでとても広くて
息をすれば男の匂いに、少し息が詰まった。