これが私の答えです。
彼はそれを聞いた瞬間笑った。
きっと私にだけ、この笑いが綺麗に映る。
「ヒャハハ、何か用ですかな?」
もう大分聞きなれてしまったその笑い方には何も触れずに、手に持っていた花を手渡す。
「ヤミシズナ…ですか。貴女は此の花の花言葉をご存知かな?」
受け取った彼の顔は幾分か嬉しそうに見えなくも無くてほっと安堵する。
ここで拒否されては取ってきた意味がない。
「”悪意”…違いますか?」
彼は私の持つ預言書を一瞥して、愚問でしたかな、と一人ごちる。
「普通はこの花を人に贈ろうなどとは考えないでしょうにねぇ」
人が悪意を持って嗤う顔に見えることから、ほとんど好かれる事のない此の花。
けれど彼は違う、彼は此の花を愛している。それがとても、彼らしかった。
「宰相様は此の花がお好きでしょう?」
彼の眼はその手中で嗤いながら揺れる花を愛おしそうに愛でている。その姿に、とても嬉しくなった。
「私はもう宰相ではありませんよ、預言書のお嬢さん。」
くつくつと嗤う彼の顔の左半分は髪に隠されていて見えない。その半分は預言書によれば魔物化しているという。
「私はティアです。お嬢さんじゃないです。」
少しむくれてみると彼は肩をすくめる。なんだか以前より丸くなったみたいだ。
「こんな所に居て、そこの精霊たちも気が気じゃないでしょうにねぇ。」
「…ぇ?」
みればはらはらと心配そうに此方を見ているミエリと、彼を鋭く睨み敵意をむき出しにしているレンポとネアキ、そして彼の動向を冷静に窺っているウルが居た。
「だっ、大丈夫だよみんな!?」
「大丈夫な訳ねぇだろティア!そいつはお前を殺して預言書を奪おうとした奴だぞ、忘れちまったのか?!」
「…危険、離れろ。」
レンポとネアキがき、とその対称的な温度の瞳で彼を見ている。
「彼女に手は出しませんよ、安心して下さい。」
しかしそれを聞いて私は少しだけ落胆する。手を出さない。溜息ものだ。
「信用するに足りる人物とはほど遠いですが…まぁ、ここはティアの気持ちも汲んで預言書に戻っていましょうか。」
「え、ティアの気持ちって、ウル…」
「ミエリ、聡い貴女なら判るでしょうが、そういうことです。」
流石はウルだなぁと思いながら、私はその雷の精霊に微笑んだ。感謝と、彼の推理の正しさを証明するために。
案の定その論理的で頭の回転の速い精霊はそれだけで分かってしまったに違いない。
外れて欲しいと少なからず願っていたであろう彼の予想は見事に正解、花丸二重丸をあげても良い位の。
「ティア、お前それ本気か―――…」
レンポがみなまで言わない内にウルによって預言書に引き戻される。ネアキもまたミエリに同じく引き戻されている。
「これで、どうでしょう?」
「ヒャハハ、お嬢さん――いえ、ティアはまったく怖い物を知らないようですねぇ。」
いざとなれば己を一番に助けてくれる筈の精霊たちを戻してしまうのだから、そう言われてもしょうがないのだけれど。
ティアはますますむくれた。
「宰相様はわかってませんね。私、悪い子なんですよ。だから怖いものなんてないんです。」
そういうと、彼は驚いたようにその紅い目を少しだけ、見開いた。
けれどそれは直ぐに細められ、彼は持っていた杖を置くとすらりと背を伸ばし、私の方へ屈んだ。
「悪い子ほど己の小さな悪より大きい闇を恐れるものです。貴女はですから、悪い子ではないでしょう。私は悪意や闇に関しては、誰にも劣らないと自負しておりますからねぇ。」
目の前に紅い目がある。笑みに歪められた口元はそれでも綺麗で、顔には老いの一つの要素もない。
「宰相様、」
「ティア、一つだけ忠告を。私は執念深い性格です。それは貴女も分かっている事でしょう。ですから一つだけ。」
良く見ると、彼の顔の白粉は長い牢獄生活の間にとれていっているようだ。
良く見ないと分からなかったのは、彼の元の肌の色もまた、雪のように白かったから。
「何ですか?」
「…あまり私に近づかない方が良いでしょう。」
この言葉に私は少なからずショックを受けた。何故彼はこんな事を言うのだろうか?
「前述の通り、私はとても執着心が強い。そして独占欲もまた、同じように強い。」
私が此処に来るのは一体何回目だったろうか
その度にお嬢さん、をティアに修正しては聞き入れて貰えなかったような気がする。
それを彼は今日、呼んでくれた。
「意識しなければ良かったのですよ。これはまたしても私の失策で、かつ私の罪だ。貴女には何の関係もない。」
彼は己の魔物の方の顔の前に手を翳した。
「戻れるのは数分です。これも人間の姿に執着した私の、最後の抵抗にすぎません。」
現れた人の顔、…彼の顔に息を飲んだ。あまりに整っていて、造り物かと思ってしまうほどに。
「二度と此処へは来てはいけない。今日は貴女の精霊達に約束してしまいましたから――手は出しません、勿論。しかし次貴女がもし来るようなことがあった時…
私は果たして、耐えることができるかわからないのですよ。」
彼はそっと硬直する私の耳元で、それはそれは低く甘い、今までからは想像できないような声で、言った。
「私の独占欲で、貴女を私のことしか考えられないようにしてしまいそうなのです。」
どんな手を使ってしまっても、貴女は怒らないでいてくれますか?
そんな言葉が耳を掠めて唖然とする。
「宰相、様…?」
「年寄りの戯言にしては、少々気が入りすぎていますが、どうぞお気になさらず。少なくとも精霊達には私の気持ちが分かってくれていると良いのですが。」
さらさらと霧のような砂のようなものが彼の顔を包み、半分を魔物に戻していく。
鋭い紅い瞳がちらりと見えた。そういえば瞳の色は人の顔でも変わっていなかった気がする。私は、笑った。
「じゃあ、どんな手を使ってでも、私を宰相様以外見えないようにしてください。」
彼の目が大きく開かれる
「…知りませんよ。」
「いったでしょう、私は悪い子なんです。」
彼の口元が緩んだ気がして、私の頬は更に緩んで、
そして無造作に置かれた預言書がかたかたと古ぼけた机の上で動くのに、私は気付くのをやめた。